mdkロンドン生活

ロンドン生活、赤子との暮らし、日々のよしなしごとなど。

差別は単に慣れの問題説

息子がナーサリー経由でBookTrust(読書を推進する教育基金団体で、年齢に応じた絵本を無料でくれる)から絵本をもらった。

親向けのリーフレットに、「クラスの様子の絵を見て何があるか、何をしているかお子さんと話してみましょう」というコーナーがあった。

そのイラストがこちら。

なかなかに感銘深い。
色々な人種の子たち、車椅子の子もいる。
そして皆楽しそうに、しかしそれぞれ違うことをしている。


私は今現在イギリスに住んでおり、日本人というマイノリティーなので単にいいねいいね!という感想なのだが、果たして自分がマジョリティー側になった場合、例えば帰国して自分がマジョリティー(蛇足ですが勝ち負けではなく、多数派であるという意味です)になった場合、他のアジア人の人々に、或いはその他のファクターで自分と違う人に、完全にノンフィルターに、フラットになれるか?と考えた時に、恐らく答えは否なのである。

もはや三分の一が外国生まれであるロンドン(血的な意味で言うとそれ以上な気がする。体感だと半分くらい)、小さな子にすら指を指されたり、日本語を喋っていて笑われたりしたことはない。

25年前のベルギーでは、そういう差別的な事は頻繁にありごく普通の日常であった。8割の確率でシノワーズ(中国人)って言われておい聞こえてんぞ!フラ語分かんないと思うなよ!と喧嘩をしかけたこともあった。恐らく、日本の地方都市に白人でない外国の人が移住したら同じことが起きるかも知れない。ヨーロッパにおいても、田舎を旅していると視線を強く感じ逆に懐かしい。


これは、単に慣れの問題な気がしている。


それは「みんな違ってみんないい」教育の賜物では別になくて、単に自分と違う人が私たち以外にもそこらにいっぱいいるから。だと感じる。皆何気ない毎日に、自分と違う人々に普通に沢山出会う。

息子のナーサリーにはおやつタイム、手を洗うなどが絵になっているカードがあり、先生が最初はそれを使って非英語圏のこどもたちにルーティーンを教える。フランス人、ドイツ人スイス人オランダ人、中国にアルバニア、色々な人種の子がいる。

英語のクラスでも、キプロス共和国ナウル共和国コソボルーマニア、会ったことのない国の人に沢山出会うことができる。

普通にある、差別の意識すらない、(それこそが問題だったりするが)違うものに対する可笑しみって当然にあって、それを現場で場数踏んで実地的に学んだり、あるいは生まれた時からグローバルな環境が学ばずとも当たり前だったりしない限り、差別や偏見を持たないって無理な話だと思う。

ダイバーシティを教科書で見てもふーんとは思っても、腹に落ちるのはクラスメイトとして隣の席に自分と違う人が来た時じゃないかなぁ。かく言う私はまだ普通にとらわれまくりで息子に気になることがあれば未だにGoogleサーチしてるからね。

というわけで書を捨てよ、町に出よう2018、自分への戒めとして!


そんなことを考えている折、日本の、育児業界におけるダイバーシティはまだ道半ばでベネッセの担当者には同情しきりなのである。


これらは先廻りのディスクレーマーなのか、版を重ねる毎に実際のクレームから学んだ防御なのかどちらだろうか。まぁ後者だろうなぁ。

中2進級を待ってルーズソックスを履くつもりが、中2の4月から禁止となり悲しんでいた折、試合の引率が国語のS先生だったことで先生を舐めきっていた我らは部活の試合にルーズで行ったことがある。

先生は、「どの意見にも、その反対意見があるということを忘れないように」と言ったのをよく覚えていて、今でもたまに思い出す。

しかしこのサンドイッチの注釈はどういうことなんだろうか?教えてわかる人!!


まだまだ寒い